「わからなさ」に自分を開く。僧侶・松本紹圭が語るメタバース時代のウェルビーイング

「わからなさ」に自分を開く。僧侶・松本紹圭が語るメタバース時代のウェルビーイング

さまざまなテクノロジーによって私たちの生活は快適になったが、デジタルツールの過剰使用やSNSへの依存がメンタルヘルスを損なわせる危険性も指摘されている。さらにはメタバースの普及により自他の境界や世界の認識も変わってゆけば、ウェルビーイングのあり方も変化していくだろう。私たちはいかにデジタルテクノロジーと向き合うべきなのか――現代仏教僧として、次世代を視野に入れたウェルビーイングを仏道から探る活動を行なっている松本紹圭は、いまこそ「声」が重要なのだと説く。

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「わからなさ」に自分を開く。僧侶・松本紹圭が語るメタバース時代のウェルビーイング

松本紹圭

情報と適切な距離をとるための「中道」

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―「僧侶」というと一般的にはテクノロジーと縁遠いイメージがありますが、松本さんはnoteやTwitterなどを積極的に活用されていますよね。ご自身でメタバースやVR / ARを体験されたこともありますか?

松本:私自身は詳しくないのですが、展示会やイベントなどで体験したことはあります。その世界に没入しているような感覚を得られるところまでクオリティーが上がっていることに驚かされましたね。ただ、伝統的な世界に身を置く僧侶だからテクノロジーを拒絶するわけではないのですが、さまざまなテクノロジーが進化しているからこそ情報とは適切に距離をとるようにしています。

―たしかに近年は「デジタルデトックス」のように、情報と距離をとる重要性が指摘される機会も増えてきたように思います。

松本:TwitterなどのSNSって人を依存させるようにデザインされていて、放っておくとどんどんその世界に没入してしまいますからね。仏教のなかでも、極端な立場と距離をとる「中道」は重要な概念のひとつです。しばしば中道はどっちつかずの中途半端な態度と思われてしまうこともありますが、ひとつの立場や思想に執着せず自分のちょうどいいところにチューニングしつづけるのはすごく大変だし、深い営みでもあるなと感じます。

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―膨大な量の情報に囲まれた現代においては、ウェルビーイングの観点から見ても中道が重要な態度となるのかもしれません。

松本:もっとも、中道とはすべてから切り離された自由な存在になることではありません。医師の熊谷晋一郎先生が「自立とはたくさんの依存先をもつこと」と仰っているように、たくさんの立場とつながって揺れながら自分の真ん中を探っていくことが中道の態度であり、そのなかにこそウェルビーイングが立ち現れてくるのではないかと思っています。

―複数の世界を行き来しながらアバターも切り替えられるメタバースは、依存先を増やしていくことにつながるとも言えそうです。複数の自分をつくりだせるようになっていくと、自己のあり方も変わっていくと思われますか?

松本:いい影響も悪い影響もあると思います。作家の平野啓一郎さんが「分人(dividual)」という概念を提唱されているように、メタバースの発明以前から私たちは分割不可能な個人(individual)ではなく、時と場合に応じて異なる人格を使い分ける分人(dividual)として生きているとも言えるでしょう。

ただ、そう簡単に自己のあり方が変わるわけでもないように思います。たとえば現代のメタバースはもっぱら視覚情報を中心として設計されていますよね。メタバースのなかでたくさんのアバターを使い分けたり、現実と見紛うほどリアルな映像をつくれたりしたとしても、目をつぶってしまえば区別はつきませんから。

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「声」に宿るアイデンティティー。音は豊かな情報をもっている

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―メタバースの発展を考えるうえでは、視覚以外の感覚に訴えかけるような表現やサービスもこれから増えていくのかもしれませんね。

松本:私自身は、「声」にこそアイデンティティーが宿るのではないかと考えています。メタバースならアバターを変えられるし現実世界でも外見はメイクによって変えられますが、声はなかなか変えられない。

声って、すごく面白いんですよ。私はいま産業医のように企業と契約する「産業僧」として企業の方々と1on1のミーティングを行なうことも多いのですが、データサイエンスチームとともにAIを通じた音声感情解析を行なうプロジェクトを進めています。プーチン大統領が演説する声からその感情を分析する研究や、声から病気を診断する研究などがすでに存在しているように、声には多くの情報が含まれている。アバターのように切り替えられる視覚情報ではなく、声こそが私たちにとってindividualなのかもしれません。

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―面白いですね。松本さんはいつごろから声に注目されるようになったんですか?

松本:コロナ禍をきっかけに意識が強まったような気がします。私は朝にお寺で掃除や読経、対話を行なう『テンプルモーニング』という取り組みを実施しているのですが、コロナ禍になって直接人と会うことが難しくなったんですよね。ただ、私としてはこれまでやってきたことを映像でライブ配信する気にはなれなくて、音だけで届けるのもいいかもしれないと思ったんです。

たとえばお経を読む様子を動画で届けるとそのお寺の本堂の様子が想起されてしまうのですが、映像なしで音だけだとお坊さんが家に来てくれたような感覚を生み出せるらしくて。

―視覚情報が遮断されるからこそ想像力が刺激されるわけですね。

松本:仏教の観音様も「音」を「観る」と書いて観音ですからね。自分や相手の声をきちんと聴くことは、その存在を意識することであり、お互いに響き合っていることでもある。もちろん視覚優位のメタバースが悪いとは言いませんが、音のもつ情報やインタラクションの可能性を無視してはいけないでしょう。

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ウェルビーイングとは動的なもの

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―松本さんご自身の情報との距離感や音声に対する感覚は、現代におけるウェルビーイングとも深くつながっていると感じます。私たちはどのように情報との距離をチューニングしていくべきだと思われますか?

松本:ウェルビーイングのような概念が登場するとつい私たちは新しい指標をつくり、その指標に対して高い / 低いや良い / 悪いを語ってしまいがちです。しかし、スナップショット的にある時点の良し悪しを語っても意味がないと思っています。ウェルビーイングのようなものはもっと動的に見ていく必要があるわけです。

たとえば先ほど紹介した音声感情解析では声から喜びや悲しみ、怒りなどの感情を解析するのですが、ずっと喜びの感情しか出てこない人がいたら嫌ですよね。全社員ずっと喜びの感情だけが出てくるような会社をつくろうとしたら、カルト的な組織になってしまうかもしれません。喜びがよくて悲しみが悪いわけではなく、私たちの人生は感情も含めてずっと揺れ動き続けているもので、一点にとどまることなんてありえません。

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―メタバースもアバターごとに異なる世界があると思うのではなく、どこかで連続していると考えたほうがいいのかもしれませんね。

松本:悲しい感情が生まれるのもきちんと理由があるわけで、悲しい感情ごと消し去ろうとするのではなくそこに至る経緯も含めて味わったほうがいい。ただInstagramのようなSNSはまさにスナップショットのように生活のある一瞬を切り取ることで快楽を生み出すものですし、私たちは物事のある一面だけを見て良し悪しを判断してしまうクセがついてしまっているとも言えます。スナップショットの世界の奴隷にならないよう自分を保つ知恵が大事になりますね。

―そう考えていくと、過去や未来の見方も変わってきそうです。

松本:過去も未来も連続していますからね。私は昨年ドバイで行なわれた『Dubai Future Forum』というカンファレンスに呼ばれて世界中の「フューチャリスト(futurist)」と呼ばれるような方々と話す機会があったのですが、そのときに僧侶の自分もある意味ではフューチャリストなんだなと思ったんです。僧侶って未来より過去のイメージが強いかもしれませんが、未来も過去からの連続性のなかに立ち上がるものですし、過去をきちんと引き受けなければ未来はありえませんから。

他方で昨年私が翻訳した『グッドアンセスター』(※)という本は、私たちがいずれ未来の人から「よき祖先」として振り返られるために、いまどんな生き方をしたらよいかを考えるための本でした。過去を振り返ることで未来も見えてくるし、未来を見通すからこそ現在の生き方を問うこともできるはずです。

※ローマン・クルツナリック著、松本紹圭訳『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』、2021年9月、あすなろ書房刊

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大切なのは、この世界の「わからなさ」のなかに自分を開いていくこと

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―連続性を意識するうえで、松本さんはどんなことに注目されているのでしょうか。

松本:私としては先ほど申し上げたような「声」をきちんと見ていくことが大事だと思っています。アバターやメタバースはあたかも連続性を切り替えられるかのような世界を提示しているかもしれませんが、少なくとも声に連続性は表れているし、自分という存在はそんな連続性にこそ立ち現れてくるんじゃないでしょうか。

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あるいは、私はよく山を登るのですが、それも連続性を確認する営みと言えるかもしれません。都市のなかで生活していると、この世界には人間しかいないかのように思えてしまいますが、実際には動物や植物、自然とのつながりなしに私たちは生きていけないでしょう。

―視野を広げてみることで、普段は気づかなかったつながりや連続性が見えてくるのかもしれません。

松本:メタバースって現実空間ではできないことがたくさんできるので自分が世界をつくれるかのような錯覚を生み出すこともあるかもしれませんが、この世界はコントロールできないし、むしろわからなさのなかに自分を開いていくことが大事だと思います。驚きやわからなさ、この世界の不思議さに開かれている感性を育まなければいけませんね。

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お互いの声を響かせあうための「挨拶」に見る可能性

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―松本さんのご指摘はメタバースにとどまらず、いま私たちが生きている現代社会の問題ともつながっているような印象を受けました。

松本:ウェルビーイングという概念が注目されてはいるものの、人々が「正気を失ってしまっている」ような場面が世界的に増えているように感じます。集団的に自分たちの首を絞めてしまっているというか。とくに日本は労働時間が長いのに生産性が上がらず、ウェルビーイングも高いとは言えません。

私は日本には、仏教や神道のほかにも、「我慢教」や「努力教」が人々の心に根深く浸透しているように思うんです。頑張らなければ、自分の存在は許されないかのように「すべき」を背負い込んでいる人がとても多い。それは結果的に、望まずともお互いに足を引っ張り合うことになり兼ねません。産業僧として多くの会社の方々と話すなかでも、自分で自分の声を見失っているような人がすごく多いなと感じます。この硬直をほぐすためには、自分で自分の声に耳を傾ける必要がありそうです。

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―たしかに、現代社会においては自分を見失ってしまうような状況に置かれてしまうこともありそうです。どうすれば自分の声に耳を傾けられるようになるのでしょうか。

松本:私は最近「挨拶」に注目しています。挨拶ってじつは仏教用語だったんですよね。修行僧や師匠が「おはようございます」と挨拶することで、お互いの悟り具合を測り合い、声を響かせ合い、ポリフォニーをつくることでお互いを高め合っていく。

世界には「おはようございます」や「Hello」などさまざまな挨拶があるものの、どれも言葉自体にはほとんど言語情報がないですよね。私たちは土地や時間を超えて、いつも音を響かせ合うことで、お互いを確認してきました。メタバースも画質や動きをリッチにするだけではなく、挨拶を響かせ合って相手の存在を感じられる機会をつくることで、ウェルビーイングにつながっていくのかもしれません。